華屋与兵衛
はなやよへい
握り寿司の生みの親として真っ先に名前が挙がる、江戸の寿司屋。両国の「与兵衛鮓」の初代です。ただ、与兵衛より前にも握る寿司はあった。発明者というより、握りを大成させた人と見るのが有力です。
寛政11年(1799)、江戸の霊岸島(いまの中央区新川)生まれ。福井藩に出入りする八百屋の息子でした。生まれてまもなく母を亡くし、9歳で蔵前の札差、板倉屋に奉公に出ます。米の売り買いを代行する大人の世界を見ながら、十数年を過ごした。
20代で札差の奉公をやめると、古道具屋、干菓子屋と商売を転々。文政年間に本所の横網で寿司を売り始めます。店は持たず、夜遅くまで売り歩いて金を貯め、やがて両国・回向院前の尾上町に小さな店を構えた。これが「与兵衛鮓」です。
墨田区の観光協会が伝える身の上は、もう少し波乱含みです。札差の手代だった与兵衛は、ぜいたくが高じて身代をつぶし、本所横網の裏店に身をひそめていた。そこで道楽のあいだに覚えた味から、握りのこはだ鮨を考え出す。岡持ちに入れて夜の繁華街を売り歩くと、江戸っ子に受けて飛ぶように売れ、屋台から店へと大きくなった、という話です。
もっとも、開いた当初の与兵衛鮓が売っていたのは、押しずしでした。文政のころの狂歌に「押しのきく人は松公と与兵衛なり」。それが安政5年(1858)の歌では、込み合う与兵衛鮓で「客ももろ手を握りたりけり」。この間に、握りの店になっていたわけです。
天保7年(1836)の『江戸名物詩』には、客が来て二間ほどの店に争うように座る、とあります。間口3メートル60センチほどの店に、客が押し寄せていた。やがて店を大きくし、「松がすし」「毛抜きずし」と並ぶ江戸の三大寿司屋に数えられます。
考案者か、大成者か。与兵衛の家に連なる小泉迂外は『家庭 鮓のつけかた』(1910)に、それまでの寿司はご飯が多くて品がない、一つずつ握って箱で押すのは悠長なうえ、魚の脂を絞ってまずくする、と書き残しています。初代はそこを改めて新しい寿司を生み出した。与兵衛以前にも握る寿司はあったのだから、発明者ではなく大成者、と見るのが筋です。
両国に立つ「與兵衛寿司発祥の地」の碑は、与兵衛の工夫をこう伝えます。生の魚介をのせていた寿司に改良を加え、「煮る」「締める」といった仕事を施したタネをシャリと合わせて握った、と。
はじめは手ごろな値段で評判を取った与兵衛鮓も、しばらくすると高級路線へ。天保の改革でぜいたくが禁じられると、高い寿司を出す店として手鎖の刑を受け、握れなくされてしまいます。それでも改革の嵐が過ぎると、また堂々と高い寿司屋を営みました。
与兵衛鮓は昭和5年(1930)ごろ、惜しまれながら店を閉じました。いまある同名のチェーン店とは別物です。与兵衛鮓の系譜に連なるのが、1879年創業の日本橋「吉野鮨本店」と、人形町の「㐂寿司」。どちらも合わせ酢に砂糖を入れません。
このことばが出てくるタネ
このページの出典(5件)
- すしの歴史(7) 華屋与兵衛に関する銘店|すしラボ(ミツカン)2026-09-29 閲覧
- すしの歴史(4) 江戸の握り寿司文化と華屋与兵衛|すしラボ(ミツカン)2026-09-29 閲覧
- すし検定学習 (一)すしの歴史(全国すし商生活衛生同業組合連合会)2026-09-29 閲覧
- 与兵衛ずし跡|すみだ観光サイト(墨田区観光協会)2026-09-29 閲覧
- 「江戸前寿司」のいろは——伝承から攻略法まで 銀座名店「鮨青木」店主が伝授(2014年7月24日)(nippon.com)2026-09-25 閲覧