寿司の屋台
すしのやたい
握りを江戸じゅうに広めたのは、屋台でした。客は立ったまま、手でつまんで食べた。昭和の初めに黄金期を迎えたあと町から消えますが、いまのカウンターは、その屋台を店の中に持ち込んだ形です。
江戸後期の江戸は、百万の人が暮らす大都会。ひとり者の男が多く、寿司、蕎麦、天ぷらの屋台がにぎわいました。握りは、この屋台で人気をつかんだ食べものです。
屋台より前には、売り歩きがありました。寿司を白木の箱に入れて肩に担ぎ、呼び声高く町を回る。「鰺のすふ小鰭のすふと賑かさ」と川柳にも詠まれています。ただ、歩き売りでは運べる量もタネの数も知れている。造作に金がかからず、客のほうから寄ってくる屋台が、気の短い江戸っ子にぴたりとはまりました。
屋台の大きさは、間口6尺(約180センチ)に奥行き3尺。動かさずに据え付けて、路地の入口、湯屋の前、寄席や見世物小屋の近くと、人が集まるところで商いました。歌川広重が描いた高輪の二十六夜待ちの浜辺にも、寿司の屋台がずらりと並んでいます。この形が、昭和の初めまで続いた屋台の定番でした。
屋台では酒を売りませんでした。職人一人で何もかもこなすから手が回らないし、客も寿司を食べに来ている。寿司屋の湯呑みが大きいのは、何度も注ぎ足さずに済むようにという、屋台で始まった心づかいです。
寿司の屋台が黄金期を迎えたのは、昭和の初め。神楽坂の「都」のように、随筆や小説に登場するほど名を馳せた屋台もありました。とはいえ職人にとって、屋台は出発点。ひいき客をつかんで蓄え、土間に屋台を据えたような床店へ、さらに出前や土産を受ける内店へと進むのが夢でした。
町から寿司の屋台が消えていくのは、昭和14、15年ごろから。交通や公衆衛生の決まりのうえで好ましくない、というお達しが出たためで、戦後はすっかり姿を消しました。戦後の国は、露店の飲食店を少しずつ減らす方針をとっていました。昭和30年(1955)の厚生事務次官の通知は、無許可の露店に条件つきで許可を出す方向へ切り替えつつも、生で食べる食品を扱う露店の許可には特に慎重であれ、と念を押しています。
それでも屋台は生きています。カウンターは屋台の商法を、小上がりの座敷は料亭の商法を受け継いだもの。昭和34年(1959)の寿司屋の写真集には、屋内なのにカウンターの上へ屋根を掛けた店まで載っています。カウンターで手でつまんで食べるのも、屋台からの流儀です。
このことばが出てくるタネ
このページの出典(6件)
- すしの歴史(4) 江戸の握り寿司文化と華屋与兵衛|すしラボ(ミツカン)2026-09-29 閲覧
- 江戸時代から現代まで。移り変わるすし屋のスタイル|料理王国(料理王国)2026-09-29 閲覧
- すし屋とは|コトバンク(小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』)(コトバンク)2026-09-29 閲覧
- すし検定学習 (一)すしの歴史(全国すし商生活衛生同業組合連合会)2026-09-29 閲覧
- いわゆる「露店飲食店営業者」に対する措置について(昭和30年8月25日 発衛第292号 厚生事務次官通知)(厚生労働省)2026-09-29 閲覧
- すしの歴史(6) 各種すしの歴史|すしラボ(ミツカン)2026-09-29 閲覧