委託加工
いたくかこう
戦後の食糧難で飲食店が商売を止められたとき、寿司屋だけが生き延びた理屈。客が持ってきた米を、寿司に「加工」して返す。米1合で握り10個、この取り決めが寿司の1人前になりました。
敗戦直後の日本は、国じゅうが食糧難。闇市には高い食べものがあふれていました。そこで昭和22年(1947)に出たのが「飲食営業緊急措置令」です。配給の外食券で食べさせる食堂などを除いて、飲食店は商売ができなくなった。定食屋も料亭も、寿司屋も、のはずでした。
東京の寿司屋たちは、こう言い張りました。米は客が持ってくる。こちらはそれを炊いて握るだけで、米を売っているわけではない。寿司屋は米の加工を頼まれた「委託加工業者」なのだ、と。無茶にも聞こえるこの理屈が、食料配給の認可を握っていた警視庁を通ります。
同じ飲食業なのに、なぜ寿司屋だけ。鰻屋や天ぷら屋からは苦情が出ました。ところが警視庁の担当課長の答えは、鰻や天ぷらは米がなくても成り立つが、寿司は米がなければ成り立たない。シャリあっての寿司、を役所が認めた格好です。
決まりは細かい。客が米1合を持ってきたら、握り10個と交換。巻き寿司に替えることもできました。店は加工賃を受け取り、その場では食べさせない。タンスの奥にしまってあったのか、ナフタリンのにおいがする米を抱えてくる客もいました。
これを見たほかの県の寿司屋も、次々に同じ申請を出しました。条文は東京のまま、米1合で握り10個。押し寿司や箱寿司には当てはまらず、認められたのは握りだけです。こうして各地の寿司屋から郷土の寿司が姿を消し、江戸の郷土料理だった握りが、全国の寿司屋の標準になりました。
いまの握りの大きさも、ここにつながっています。それまで一口半ほどあった握りは、このとき決まった「1合で10個」を境に小ぶりになり、寿司の標準の形になっていきました。
表の制度の裏では、闇米も動いていました。終戦後、闇米を担いだ女性の行商人が新潟や福島、秋田から東京へ通い、とりわけ寿司屋を当てにした。そのころの東京は、見渡すかぎり寿司屋が軒を並べる食べもの横丁のよう。北大路魯山人が書き残した光景です。
このページの出典(4件)
- すしの歴史(9) 戦後のすし|すしラボ(ミツカン)2026-09-29 閲覧
- 寿司|Wikipedia(Wikipedia)2026-09-29 閲覧
- お手伝いハルコの『レシピの考古学』⑤寿司の一人前はなぜ10個なのか?|料理王国(料理王国)2026-09-29 閲覧
- 握り寿司の名人(北大路魯山人)|青空文庫(青空文庫)2026-09-29 閲覧