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江戸の川柳

女房を質に入れても初鰹

「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」。春に初めて揚がるカツオに、江戸っ子は目の玉が飛び出るような値を払いました。女房を質に入れてでも食べたい。川柳にまでからかわれた、江戸の初物熱の話です。

『江戸自慢三十六興』より「日本橋初鰹」(1864年)
『江戸自慢三十六興』より「日本橋初鰹」(1864年)写真: 歌川国貞・二代歌川広重(国立国会図書館)(Public domain)

「目には青葉」のころ

寛文5年(1665年)、幕府は魚や鳥、野菜が出回る時期を定めました。初鰹の出始めは4月。いまの暦なら5月です。新緑がまぶしく、山ではほととぎすが初めて鳴く。延宝6年(1678年)の山口素堂の句「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」は、まさにこの季節の一句。
春、黒潮に乗って北上するカツオは、若葉のころに伊豆や房総の沖へやって来ます。鎌倉の沖で揚がったものは、早馬と早飛脚で生きたまま江戸へ。芭蕉は「鎌倉を生きて出でけむ初鰹」と、その活きのよさを詠みました。

一本三両

魚の格付けでいえば、カツオは上魚ではなく中魚。それでも江戸の人々は初鰹を珍重し、幕府の定めより前に裏の筋で手に入れたものほど高く売れた。熱がいちばん上がったのは、明和・安永(1764〜81年)から文化・文政(1804〜30年)にかけてです。
歌川広重『魚づくし』より「鰹に桜」(1830年代)
歌川広重『魚づくし』より「鰹に桜」(1830年代)写真: 歌川広重(メトロポリタン美術館)(CC0)
文化9年(1812年)3月25日、日本橋の魚河岸に初鰹が17本入りました。6本は将軍家のお買い上げ。料理屋の八百善に渡ったのは3本とも1本とも書かれ、残りは魚屋へ。その1本を3両で買い、大部屋の役者たちにふるまったのが、歌舞伎役者の三代目中村歌右衛門です。この日の顛末を書き残したのは、幕臣で文人の蜀山人(大田南畝)。
天明年間(1781〜88年)には、初鰹1本に2両2分を払った例が、山東京山の『蛛の糸巻』に残っています。秋の盛りなら、大ぶりのカツオが200文。初鰹はその75倍でした。

女房を質に入れても

走りを過ぎると値は日ごとに下がり、2分、1分まで来てようやく町の人にも手が届く。それでも家計にはこたえました。「初鰹女房に小一年いわれ」(『柳多留』)。ほかにも「女房を質に入れても初鰹」「初鰹女房は質を受けたがり」「目と耳はただだが口は銭がいり」と、川柳は容赦がない。
そこまでして、なぜ食べるのか。「初物を食えば七十五日長生きする」。江戸っ子はこれを信じて、競って初鰹を求めました。

刺身に辛子

食べ方は刺身。薬味はもっぱら辛子でした。絵島生島事件(1714年)で三宅島へ流された役者・生島新五郎が、江戸の二代目市川團十郎へ書き送ったという句が伝わっています。「初かつお辛子がなくて涙かな」。
初鰹を食べることを誇りにしたのは、とくに江戸の風習でした。カツオの本当の旬は、水揚げが増えて値も下がる夏と秋で、産地で好まれたのもそちらでした。

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