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寿司の歴史

出前と寿司桶、折詰

寿司は、店で食べるだけのものではありません。岡持ちで、折詰で、桶に並べて。握りが店の外へ出ていった道のりと、出前の桶の盛り方が戦後にがらりと変わったわけを、江戸から順にたどります。

二つの寿司桶

寿司桶と一口に言っても、桶は二つあります。ひとつは、シャリを合わせるときに使う浅い白木の桶。飯台とも飯切(はんぎり)とも呼びます。もうひとつは、握りを並べる丸くて平たい器。黒い漆塗りのものが多く、木のほかに樹脂のものもある。出前で玄関に届くのは、こちらの桶です。

江戸の出前

寿司が店の外へ出ていく歴史は、握りと同じくらい古い。『守貞謾稿』には、折詰に握りを詰めて売り歩く男の絵が載っています。人出のある行事の日には、屋台から宴席まで寿司を届けるのも仕事のうち。運ぶ道具は岡持ちで、平たく浅い桶に持ち手とふたを付けたものです。寿司ことば「華屋与兵衛」の店も、はじめは岡持ちを提げて夜の町を売り歩くところから始まりました。「出前」という言葉そのものも、天保のはじめの人情本『春色梅児誉美』にもう出てきます。
同じ届ける料理でも、「仕出し」と「出前」は少し違います。仕出しは、会席料理のひと揃い、あるいはその何品かを届けるのが本来の形。1824年の『江戸買物独案内』を開くと、高級料亭の大半が仕出しを受けていました。出前はもっと気安い。辞書が出前の例に挙げるのは、蕎麦屋の蕎麦やうどん、丼もの、中華料理店のラーメン、そして寿司屋の寿司です。

積むから並べるへ

戦前の寿司屋では、寿司は「盛る」ものではなく「積む」ものでした。握りを何段にも重ねるのが当たり前で、一人前でも握りを斜めに立て掛けるようにした。いまおなじみの、横一列に並べる「流し盛り」もあるにはありましたが、それは遊郭の料理屋、台屋の盛り方。数が少なくて済み、見た目だけは華やかです。うっかり流し盛りの桶を普通の家に届けようものなら、「台屋のすしなんか、持ってくるなよ」と叱られました。
それが戦後、流し盛りが寿司屋の正しい盛り方にひっくり返ります。積み上げないから形が崩れない。上の握りに塗った醤油で、下の握りが汚れることもない。盛る手間もずっと軽い。もうひとつのわけが、頼み方の変化です。戦前は「いくら分」と金額で頼んでいたのが、戦後は「何人前」と人数で頼むようになる。一段に並べれば、何人前か一目で分かります。おまけに運ぶのも楽。戦後の流れにぴたりと乗った盛り方でした。

持ち帰りと宅配

茶巾寿司(五目寿司を薄焼き玉子で包んだもの)
茶巾寿司(五目寿司を薄焼き玉子で包んだもの)写真: Questionfromjapan(Public domain)
店に頼んで届けてもらうのとは別に、寿司を買って帰る道も太くなっていきます。昭和26年(1951)4月、人形町の料亭だった京樽が、看板になる「茶きん鮨」をこしらえました。五目寿司を薄焼き玉子で包み、干瓢や細昆布で結んだ寿司で、料理そのものは享和2年(1802)の『名飯部類』にも出てくるほど古い。翌27年7月には、上野の百貨店ののれん街に、茶きんと上方鮨の1号店。持ち帰りの寿司が、デパートの売り場に並びはじめました。
1964年には、のちの小僧寿しの前身となる持ち帰り寿司の店が開きます。1972年に今の会社ができたとき、加盟店は27店。社名は志賀直哉の短編『小僧の神様』から取りました。丁稚奉公の小僧、仙吉が、念願の寿司を見知らぬ客に腹いっぱいごちそうしてもらう話です。当時は高かった寿司を、もっと身近に。名前にそのまま狙いが書いてあります。
届ける寿司にも、チェーンの時代が来ます。1998年2月、岐阜市に宅配寿司「寿司衛門」の1号店。2000年に名前を「銀のさら」に改め、2002年には7月に100店、11月に200店と、一気に数を増やしました。岡持ちで届けた江戸の握りが、チェーンの看板を背負って玄関まで来るようになったわけです。

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