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寿司の歴史

寿司と氷・冷蔵庫

冷やす道具のない江戸で、握りのタネはどう守られていたのか。函館の天然氷、機械で作る氷、魚河岸の氷冷蔵庫、そして台所の電気冷蔵庫。冷やす技術が、寿司屋の仕事とタネの顔ぶれを少しずつ変えていきます。

冷やせなかった江戸の握り

江戸の握りには、冷やす道具がありません。華屋与兵衛のころの握りは、アナゴ、イカ、エビなどに味をつけて煮て、シャリにのせたものが多かった。酢に漬けた魚や生の魚は、むしろ少数派です。塩で締める、酢で締める、ゆでる、蒸す。どれも、魚が傷むのを遅らせる手立てでした。
氷そのものは、ずっと昔からありました。冬の氷を穴ぐらにたくわえる氷室は『日本書紀』にも出てきて、夏の氷は朝廷への献上品。江戸時代には将軍家が金沢から氷を取り寄せ、将軍に献上する魚を天然の氷で運んでもいます。ただし氷は、特権階級の、それもごく一部のもの。町の暮らしに届くには、まず大量に運ぶ手立てが要りました。

函館の氷、機械の氷

町に氷が回りはじめるのは、幕末から明治の初めです。開港した横浜では、アメリカ人がボストンの氷を船で運び込み、大きな利益をあげていた。そこへ函館の氷で打って出たのが、中川嘉兵衛でした。五稜郭の堀で天然氷を切り出し、船で東京や横浜へ大量に送って、安く売る。これが評判を呼び、函館名産の「竜紋氷」として知られるようになります。
やがて氷は、機械で作るものになります。人造氷の製造は1877年(明治10年)に大阪で始まり、1883年には東京製氷会社、1899年には機械製氷会社ができる。本所業平橋の工場が1日50tを作るようになって、人造氷は広まっていきました。明治30年代には、生の魚を運ぶのにも氷が使われはじめる。漁村の暮らしと魚の流通を大きく変えた、画期的な使い道です。1903年(明治36年)には、氷で冷やす冷蔵庫が東京の魚河岸に登場します。

マグロとヅケ

冷やす技術といっしょに広まったタネの代表が、マグロです。明治の初め、マグロの需要が増えて近海ものでは足りなくなり、三陸から取り寄せるようになった。冷凍の設備はまだなく、醤油に漬けて送ってきます。寿司屋がマグロを「ヅケ」と呼ぶのは、そのなごり。脂の多いところは、醤油に漬けてももたなかった。冷蔵の技術が進んでヅケにしなくて済むようになると、どこの寿司屋もマグロを握り、トロも人の口に入るようになります。早いところで昭和初期、遅くても昭和30年代の初めのことでした。

台所に冷蔵庫が来る

冷やす箱が家の台所に入るのは、もう少しあと。家庭用の氷冷蔵庫は1907年ころに売り出されましたが、庫内は15℃前後で、10℃より下には冷やせません。氷も定期的に足す必要がありました。国産の電気冷蔵庫は1930年(昭和5年)に出たものの、値段は700円以上で、家が一軒買えるほど。日中戦争が始まると重い物品税がかかり、製造禁止にまで追い込まれます。1960年に約5%だった家庭の普及率は、1970年には90%。10年で一気に行き渡りました。
魚を凍らせる技術も、似た道をたどります。冷凍魚を食品の事業として作りはじめたのは1920年(大正9年)、北海道でのこと。1935年(昭和10年)に東京と大阪のデパートで冷凍魚を売り出したときは、不調に終わりました。冷凍食品が家庭で使われるようになるのは、昭和40年代です。寿司のタネの種類が増えたのも戦後で、生のエビ、生のイカ、ウニ、イクラ、数の子が、握りにのるようになりました。

いまも残る氷の冷蔵庫

電気冷蔵庫の時代になっても、氷の冷蔵庫は消えていません。庫内のものが乾かないように、いまも寿司屋などで使われています。そして、冷やす道具がどれほど進んでも変わらないことがひとつ。生の魚をのせる握りは、時間を置くと危ない。握ったら、すぐに食べる寿司です。

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