寿司のデータベース

品書き / 寿司ばなし / 駅弁になった寿司

寿司の歴史

駅弁になった寿司

駅のホームで売られた最初の弁当は、竹の皮に包んだ握り飯でした。そこへ相模湾の小鯵が、日本海の小鯛が、山陰のカニが、寿司になって加わっていく。駅弁の寿司が、どこで、どうして生まれたのかをたどります。

握り飯から始まった

駅弁の始まりに、寿司はまだいません。明治18年(1885年)、上野と宇都宮のあいだに日本鉄道が開通したとき、宇都宮駅で売られたのは竹の皮に包んだ握り飯でした。2個にたくあんを添えて、5銭。うな丼が10銭の時代ですから、ずいぶん割高な弁当です。
国鉄は駅弁を二つに分けていました。幅広い好みに合わせた幕の内のような「普通弁当」と、ご飯に特別な材料を合わせた「特殊弁当」。寿司は特殊弁当の側です。戦前の特殊弁当といえば、鶏飯か、夏だけのアユずしくらい。1955年ころから「〇〇飯」「××ずし」とうたう駅弁が各地に現れ、1982年には駅弁およそ1500点のうち、特殊弁当が1035点、そのうち寿司が521点を占めました。特殊弁当のほぼ半分が寿司だったわけです。

相模湾の小鯵

寿司の駅弁で古い顔のひとつが、小田原駅の「小鯵押寿司」。明治36年(1903年)の発売です。名物になる弁当を作りたい。そこで選ばれたのが小鯵でした。塩で締めて酢に漬け、関西風の押し寿司に仕立てる。売り出したのは、明治21年(1888年)に竹の皮包みのおにぎり弁当から商いを始めた、小田原の東華軒です。
10年後の大正2年(1913年)、同じ神奈川の大船駅でも「鯵の押寿し」が生まれます。目をつけたのは、当時の相模湾で豊富に獲れた鯵。作ったのは明治31年(1898年)に大船駅の構内で営業を始めた店で、翌年には黒田清隆の勧めで駅弁のサンドウィッチを売り出し、その日本初を名乗っています。いまも「伝承鯵の押寿し」は、大正2年の販売当時の姿のまま。小鯵の半身を伝統の合わせ酢で締めて、押してある。

元祖のかに寿し

戦後の寿司駅弁で、名前に「元祖」を掲げるのが鳥取駅の「かに寿し」です。昭和18年に駅弁屋を開いた鳥取の店が、戦争が終わって暮らしが落ち着いてきた昭和20年代の後半、旅の客に喜ばれる土地の色の濃い駅弁を、と考えた。目をつけたのは山陰の松葉ガニで、昭和27年(1952年)に完成します。そこから6年かけて独自の保存の技術を考え、昭和33年から一年じゅう売れるようになりました。
「元祖」の二文字は、あとから付いたもの。売り出してしばらくすると、かに寿しが全国のあちこちで作られるようになったからです。八角形の容器はカニの甲羅に似せたもので、全国でいちばん先にこの形を考えた、と店は胸を張ります。松葉ガニは漁期が短く、とれる量にも限りがあるので、いまはベニズワイガニを使っています。

日本海の小鯛、そして全国へ

日本海の側には、小鯛の寿司があります。敦賀駅の駅弁屋は「元祖鯛鮨」を看板に掲げ、いまもその復刻版を並べる。もうひとつの「鯛の舞」は、日本海産の小鯛を三枚におろして薄塩で締め、ほのかに甘いシャリと合わせたもの。木箱に入っています。
百科事典が挙げる名物駅弁にも、寿司がずらりと並びます。金沢駅のお贄寿し、富山駅のますのすし、鳥取駅のかに寿し。米子のかにずしに、三角のたいの姿ずし。1958年2月には大阪の高島屋で第1回の全国駅弁大会が開かれ、駅弁大会はやがて各地のデパートやスーパーへ広がっていきます。駅で生まれた寿司が、駅に行かなくても買えるものになりました。富山の一品は「ます寿司」、駅でも売られる奈良の寿司は「柿の葉寿司」のページで。

次に読みたくなる

ほかの寿司ばなし

このページの出典(10件)