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寿司の歴史

江戸の寿司の値段

屋台でつまむ江戸の握りは、ひとついくらだったのか。安い寿司の隣には、庶民が目を丸くする高い寿司屋もありました。幕末の記録をたどると、その値段は天保の改革のお触れとぶつかります。

握りは八文

江戸の終わりごろ、握りはひとつおよそ8文。喜田川守貞が江戸と京坂の暮らしを絵入りで書き留めた『守貞謾稿』に、玉子焼き、車海老、海老そぼろ、白魚、まぐろの刺身、こはだ、長いまま煮た穴子の甘煮と並べて、「大略、価八文鮓なり」とあります。巻物の玉子巻だけは16文ほど。寿司屋の数も書いてあって、町ごとに1、2軒。蕎麦屋は1、2町に1軒とありますから、江戸の町には蕎麦屋より寿司屋のほうが多かった勘定です。
いまのお金にすると、どのくらいか。nippon.comの記事は1文をおよそ12円と置いて、1貫100円弱と見積もっています。2貫100円の回転寿司より、ほんの少し高いくらい。玉子の寿司だけ倍の値段なのは、鶏卵が1個7〜20文もするぜいたく品だったから。ここは、いまとは事情がまるで違います。

上には上

『守貞謾稿』は、名のある寿司屋の名前も挙げています。松の鮓、与兵衛鮓、毛抜鮓、小松鮓。竈河岸の毛抜鮓は、握りを一つずつ熊笹で巻き、桶に積んで石で押す、と作り方まで書いてあります。
上には上がいます。深川・安宅の「松がずし」です。屋号は本当は「いさごずし」で、主は堺屋松五郎。随筆『嬉遊笑覧』は、この店が出てきて世の寿司の風が「一変」した、と書き留めました。この一変は、握りの誕生ではなく、商いのやり方と値段のことだった、という見方が強い。
値段のほうは、平戸藩主の松浦静山が随筆『甲子夜話』に書き留めました。五寸ほどの器に二重に盛って、小判三両。握った者が自分で味をみて、気に入らなければ惜しげもなく捨ててしまう、という念の入れようです。三両を幕末ごろの値打ちに直すのはむずかしいと断ったうえで、ミツカンのすしラボはざっと20万円と見ています。「算盤ずくなら よしなんし 松がずし」。勘定を気にするなら近寄るな、と囃されたほどでした。
面白いのは、町の人がこういう店を憎まなかったことです。むしろ「いつかはあんな店で寿司を食ってみたい」とあこがれた。8文の握りをつまむ人が、3両の寿司に憧れる。江戸の寿司の値段は、上と下がひとつながりでした。

天保の手鎖

そこへ来たのが、天保の改革です。天保12年から14年(1841〜43)にかけて、老中の水野忠邦が倹約と風俗の引き締めを押し進めました。喜多村筠庭の『きゝのまにまに』の天保13年4月の条には、高い着物を仕立てて「ゼイタクヤ」とあだ名された店、値の張る下駄や草履の店、小間物屋が次々に召し捕られた、と並んだ末に、「大橋安宅の松が鮨、両国元町の与兵衛が鮓」の名が出てきます。寿司ことば「華屋与兵衛」の店も、松がずしも、改革の網にかかった。高い寿司屋は、握れなくなる手鎖の刑を受けました。

嵐が過ぎて

それでも、改革の嵐が過ぎると、松がずしはふたたび名の通った店に返り咲きます。お触れひとつで、高い寿司は消えませんでした。

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