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近代

握りが全国の寿司になるまで

握りは、もとは江戸の郷土料理でした。それがなぜ、日本じゅうの寿司屋の顔になったのか。震災、空襲、そして戦後の米の決まり。三つの出来事が、握りを全国へ押し出しました。

関東大震災のあとの日本橋・神田(1923年9月15日、京橋から)
関東大震災のあとの日本橋・神田(1923年9月15日、京橋から)写真: 大阪毎日新聞(Public domain)

江戸の郷土料理

握り寿司は、もとは江戸の郷土料理です。大阪や名古屋に江戸の店の支店のようなものはあっても、握りを食べたければ江戸へ行くしかなかった。全国に広がるのは、第二次世界大戦のあとのことです。
明治の新政府は、条約の改定をにらんで、東京の文化を国の手本にしようとしました。着物より洋服、和風の家より洋館、寿司なら江戸の握り。けれど、この旗振りにたいした効き目はありませんでした。

震災と空襲

大正12年(1923年)9月1日、関東大震災。死者・行方不明者はおよそ10万5,000人にのぼりました。焼け出された東京から、ふるさとへ帰る人が後を絶たない。帰った先でも働かなければならず、東京でしていた仕事をそのまま始める人がいた。そのなかに、寿司職人がいました。
それから20年あまり。昭和20年(1945年)3月10日を皮切りに、東京は空襲を繰り返し受けます。疎開や、建物を壊して防火帯を作る強制疎開で、震災を生き延びた握りの職人のなかにも、地方へ移る人が出ました。

米1合で握り10個

三つめは、戦後の委託加工です。昭和22年(1947年)に飲食店が商売を止められたとき、寿司屋は客の米1合を握り10個に「加工」して返す、という理屈で店を開けました。ほかの県でも認められたのは握りだけで、これが握りを全国の寿司屋の標準にしました。

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