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小樽

小樽の寿司屋通り

運河の町、小樽には、通りの名前になるほど寿司屋が集まっています。ニシンと石炭で栄えた北の商都が、どうして寿司の町として知られるようになったのか。港の盛衰と、寿司屋の歩みを重ねてたどります。

ニシンと石炭の港

小樽の始まりは、ニシンです。江戸時代の末には、もうニシンの漁場として知られていました。明治2年に商船の航行が自由になると、北前船がさかんに出入りするようになる。そこへ北海道で初めての鉄道が敷かれ、内陸でとれる石炭が、小樽の港から本州や海外へ運ばれていきました。
明治の中ごろ、北海道への移民が本格的になると、小樽は増えていく道内の人口を支える、暮らしの品の供給基地になります。卸商と金融機関が軒を並べ、海岸には石造りの倉庫。仕事を求める人が押し寄せる、「ゴールドラッシュさながら」の活況です。日露戦争のあとは南樺太への窓口にもなり、最盛期には25の銀行が営業していました。「北海道の『心臓』みたいな都会」とは、小林多喜二がこのまちに贈った言葉です。
人と金が集まれば、もてなしの場も増える。繁栄期の小樽の料亭は、数で全道一でした。色内の銀行街には、半径500mの中に10軒もの銀行建築が並び、こんな眺めは全国でも小樽にしかありません。

屋台から花園へ

一軒の寿司屋の歩みに、町の浮き沈みがそのまま映っています。寿司屋通りの老舗、おたる政寿司です。昭和13年(1938年)7月、浅草で寿司と天ぷらの修業を積んだ初代が、稲穂町の自宅で営んでいた喫茶店を改装して開いた店。戦争が厳しくなった昭和19年にいったん暖簾を下ろし、戦後は妙見川の河畔の屋台から出直しました。昭和22年にもらった営業許可は、小樽市内の屋台の許可第一号。昭和23年には花園1丁目1番地で本格的な寿司屋を再び開き、建坪12坪で始めた店が大当たりして、半年後には30坪に広げています。

斜陽のまちで

風向きが変わったのは昭和48年。第一次オイルショックで、花園の繁華街は夜すっかりさびれました。上得意だった会社が倒産し、客は激減。PCBによる魚介類の汚染が騒がれて、寿司屋や魚屋からはさらに客足が遠のく。港も、エネルギーが石炭から石油に替わるなかで、昭和40年代には取扱貨物が大きく減っていた。役目を終えた運河にはヘドロがたまり、小樽は「斜陽のまち」と呼ばれるようになります。
寿司屋の側にも、変わるべきところがありました。昭和52年ごろの店には、メニューひとつない。客は通の常連ばかりで、一見の客が入ってこようものなら、職人がにらみ返すような空気です。昭和54年7月1日、本店の店長に就いた二代目は、大衆路線を打ち出しました。これからの寿司屋は、メニューを掲げ、値段も示さなければ取り残される。専門店の大衆化です。

運河が残って、寿司の町へ

町を生き返らせたのは、運河でした。運河を埋めて道路にする計画が決まり、倉庫の取り壊しが始まったとき、「まちの記憶」を守ろうと保存運動が起こる。若者たちは運河と石造倉庫を舞台に、手づくりのイベント「ポートフェスティバル・イン・オタル」を開いて6万人を集め、署名は2か月で9万7千人。運河は全部は残りませんでしたが、一部が散策路になり、小樽は観光のまちとして息を吹き返します。
観光バスがやって来ると、寿司の出番です。当時の小樽には寿司のほかに名の通った食べ物がなく、寿司は小樽の「三種の神器」とまで呼ばれるようになりました。寿司屋通りの名店会が発足したのは、昭和62年10月4日。いまも名店会の店どうしで北海道物産展への出店を分担し、例会を開いて顔を合わせています。隣の寿司屋は敵、という土地もあるなかで、小樽は団結して町を盛り上げてきた。それが名店会の店の誇りです。

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