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浮世絵

浮世絵の中の寿司

母親の皿の寿司に、坊やが手を伸ばしている。歌川国芳が天保15年に描いた一枚です。皿にのっているのは何のタネで、どう盛ってあるのか。錦絵や江戸の記録の絵から、二百年前の寿司を見ていきます。

寿司をねだる坊や

天保15年(1844)、歌川国芳の「縞揃女弁慶」。弁慶縞の着物の女性を描いた10枚揃いの錦絵で、そのうちの[安宅の松]が寿司の絵です。下着の模様まで凝っていて、弁慶にちなむ輪宝の紋を、扇を組み合わせて描いてある。女性が皿に取り分けた寿司を、坊やが手を伸ばしてねだっている。添えられた狂歌も「をさな子もねたる安宅乃松カ鮓」と始まります。子どもがねだるほどの寿司、というわけです。
皿の上を、目をこらして見てください。女性の右手の皿には、折箱から取り出した寿司。都立図書館の解説で見分けられるのは、海老と光りものの握り、それに卵で巻いた巻き寿司です。ところが浜田義一郎の読みでは、上から海老の握り、玉子の巻き寿司が二つ、いちばん下に鯖の押し寿司。いちばん下の一切れは、見る人によって握りにも押し寿司にもなります。
もうひとつ目を引くのが盛り方です。寿司を横に並べず、縦に積んでいる。いまの寿司桶の景色とはまるで違います。この店の寿司は、二重に盛った寿司として天保のころに流行りました。三代豊国が文久3年(1863)に描いた「二十四好今様美人」の「寿し好」にも、やはり積み上げた寿司が出てきます。

安宅の松が寿司

折箱の蓋には、店の名までちゃんと入っています。「御膳・あたけ・さかゐ屋・松の寿之」。深川安宅六軒堀、いまの江東区新大橋あたりにあった、堺屋松五郎の「松が鮨」です。進物にもよく使われた高級の寿司で、江戸でいちばん贅沢な寿司として名が通っていました。
題の[安宅の松]が、じつは洒落になっています。長唄の「安宅松」は、弁慶が安宅の松のもとで、草刈り童に奥州平泉への道を教えてもらう話。明和6年(1769)に江戸の市村座で初演されました。一方、松が鮨の通称は「安宅の松が寿司」。弁慶縞の美人に弁慶の長唄の題を付け、そこへ寿司屋の名を掛けたわけです。
この松が鮨を握りの考案者とみる説もあれば、両国の華屋与兵衛とみる説も有力で、都立図書館の解説もどちらか一軒には決めていません。松が鮨の値段と天保の改革のいきさつは、寿司ばなし「江戸の寿司の値段」に書きました。
松が鮨は、のちに神田川沿いの浅草平右衛門町へ移りました。その店先を描いた錦絵も残っていて、文字の部分をすべて削って摺り直した版まであります。

屋台と見本帳

店の寿司だけでなく、屋台の寿司も絵に残っています。歌川広重の「東都名所之内 高輪廿六夜之図」は、天保後期の作。正月と7月の26日の夜半に月の出を拝む二十六夜待で、高輪の海辺がにぎわう晩を描いています。掛茶屋の傍に屋台がいくつも出て、寿司や果物を売っている。画面の中央やや右には、ひらがなで「すし」と書いた店が見えます。
同じ『守貞謾稿』には、筥鮓(はこずし)の図もあります。四角い木型の内側にシャリを敷き、具をのせ、押し板の蓋をして、重石か手で押して形を整える。描かれた木型は、いま使われているものとほとんど同じ形です。

海を渡った摺物

柳々居辰斎「New Year’s Sake and Sushi」(摺物、1810年ごろ)
柳々居辰斎「New Year’s Sake and Sushi」(摺物、1810年ごろ)写真: 柳々居辰斎(メトロポリタン美術館)(CC0)
海を渡った一枚もあります。メトロポリタン美術館が持つ、柳々居辰斎の摺物「New Year’s Sake and Sushi」。正月の酒と寿司を描いたもので、制作は1810年ごろ。握りが江戸に広まる文政のころより前の、江戸の寿司の姿です。

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