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寿司の醤油

寿司の醤油は、どこで生まれたか

握りにつける醤油も、甘い詰めも、関東のこいくち醤油があってこそ。けれど醤油の生まれは関東ではありません。紀州の湯浅から、房総の銚子と野田へ。寿司の醤油がたどってきた道と、刺身や寿司のための醤油の話です。

湯浅の桶から

江戸を代表する料理といえば、握り、天ぷら、そば、うなぎの蒲焼き。どれも味の決め手は、関東のこいくち醤油です。握りなら、タネにつける醤油のほかに、醤油とみりんで作る詰めもある。ところが江戸の町ができたころ、町の醤油は、まだ上方から運ばれてくるものでした。醤油の旅は、紀州から始まります。
発端は、鎌倉時代の禅僧、覚心です。建長元年(1249)に宋へ渡り、径山寺で修行するかたわら、夏野菜を漬け込む嘗め味噌の造り方を身につけて、建長6年(1254)に帰国しました。この径山寺味噌が、いまの金山寺味噌の祖。紀州の湯浅で盛んに造られるようになり、仕込んだ桶には、野菜からしみ出た汁がたまります。それまで捨てていたその汁をなめてみると、何ともいえない芳醇な味がする。これで魚や野菜を食べたらうまいに違いない、と工夫を重ねたのが、醤油の始まりです。仕込みをしくじって偶然できた、という語り口も残っています。
湯浅の醤油は、早くから海を渡って売られていきました。天文4年(1535)には、醸造家の赤桐三郎四郎が、100石余りの醤油を漁船に積んで大坂へ出荷している。これを境に、ほかの醸造家も競って他国へ積み出すようになります。天正19年(1591)、赤桐家には、豊臣秀吉から大船一艘を持つ許しが出ました。小田原攻めに兵糧米を献上した恩賞で、この船は醤油の輸送にあてられています。文化年間(1804〜18)には、湯浅の醸造業者は92軒。醤油は湯浅から、房総をはじめ全国へ広まっていきました。

紀州から銚子へ

その房総の銚子にも、紀州の血が流れています。ヤマサ醤油の創業は、1645年(正保2年)。初代の濱口儀兵衛の生まれは、湯浅の隣の広村、いまの広川町です。濱口家の当主は代々、紀州の本家と銚子を行き来していました。銚子は気候が紀州によく似ていて、醤油造りにうってつけだった。漁業の町は、醤油の町としても育っていきます。

下り醤油と関東のこいくち

江戸の初め、町で使う醤油は、上方から船で大量に送られてくる「下り醤油」でした。流れが変わるのは江戸時代の中ごろ、1700年代から。下総の野田と銚子は、醤油造りに向く気候に恵まれ、江戸川と利根川の舟運があり、原料の大豆と小麦がとれる平野も近い。江戸は職人や参勤交代の家来衆で男の多い町で、汗を流して働く人たちは、塩の効いた濃い味を好みます。そこで、醸造期間を1年以上に延ばした、濃厚で切れのいい関東のこいくちが生まれました。
1800年代に入ると、下り醤油は江戸から追い出され、江戸の醤油は関東産が占めるようになります。天保11年(1840)の『醤油番付』では、野田と銚子の造り手が上位にずらり。幕末の随筆『守貞謾稿』にも、「下総の野田町常陸土浦等より出る物上製也」の一文が見えます。上方から下ってこない品はつまらない、というので「下らない」という言葉が生まれた、という話まであるのが面白いところです。
こいくちが関東に根づいたころ、同じ関東で、みりんとかつお節も造られはじめます。1800年代の初めには、料理本の『料理早指南』や『素人包丁』に、みりんを使う料理が見える。1814年には流山で、赤く濁っていたそれまでのみりんと違う、淡く澄んだ白みりんが登場し、「あずま名物」と呼ばれました。醤油とみりんで作る詰めがあって、握りは江戸の味になる。こいくちとみりんが同じころに関東でそろったのは、偶然か、必然か。寿司好きには、ちょっとした謎です。

寿司につける醤油

中部地方に目を向けると、別の醤油があります。たまり醤油。色が濃く、とろみがあり、うま味が濃厚で、香りも独特です。古くから「さしみたまり」と呼ばれてきたとおり、寿司や刺身につける卓上の醤油にぴったり。火を通すときれいな赤みが出るので、照り焼きにも使われます。湯浅の桶の底にたまった最初の汁も、いまのたまりに近いものだった、という見方があります。
もうひとつ、寿司に合わせたいのが再仕込み醤油です。生まれは山口県の柳井地方で、山陰から北九州にかけて多く造られてきました。ふつうの醤油は麹を食塩水で仕込むところを、こちらは生揚げの醤油で仕込む。だから「再仕込み」。色も味も香りも濃く、「甘露しょうゆ」の別名があり、刺身や寿司、冷奴につけて使います。とはいえ全国の出荷量でいえば、約84%がこいくち。紀州の桶から関東へ渡った醤油が、いまも寿司の醤油の大本流です。

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