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薬味

わさびが握りに入るまで

シャリとタネのあいだに、わさびをひとはけ。いまでは当たり前のこの仕事は、いつ始まったのか。薬草だったころから、チューブが出るまでの話です。

薬草だったわさび

わさびの名前がいちばん古く見えるのは、飛鳥時代の庭園の遺構から出た木簡。「委佐俾三升」と書かれていました。そのころのわさびは薬草で、税として納めることもできた。平安時代の薬草事典『本草和名』にも載り、若狭や丹後、因幡などの国から納められていました。
食べものの味つけに使われはじめるのは平安の中ごろ。室町時代には、料理に使うのがすっかり定着します。生の魚を食べるときは、わさびを酢と合わせて添えた。鳥の薄切りや貝にも使いました。

有東木から江戸へ

栽培が始まったのは、慶長年間(1596〜1615年)。安倍川の上流、静岡県の有東木です。駿府城に入った徳川家康にこのわさびを献上したところ、天下の逸品とほめたたえ、有東木の外へ持ち出すことを禁じた。静岡のわさびには、そんな言い伝えが残っています。
江戸へは、天明年間(1781〜1789年)から、伊豆の伊東の港から船で運ばれるようになりました。そして文政年間(1818〜1830年)、江戸で握り寿司が生まれ、たちまち町じゅうに広まる。
江戸の寿司とわさびといえば、「伊豆わさび 隠しに入れて 人までも 泣かす安宅の 丸漬けのすし」という句がよく知られています。安宅のすしは、深川の安宅にあった「いさごずし」、またの名を「松がずし」。ここの丸ずし(姿ずし)は、わさびをたっぷり入れることで評判でした。食べれば誰でも泣く、というわけです。

シャリの上、タネの下

江戸・京・大坂の暮らしを書きとめた『守貞謾稿』には、握りのわさびの置き場所がはっきり書いてあります。「刺身およびコハダなどには飯の上、肉の下にはワサビを入れる」。シャリの上、タネの下。いまの握りと、まったく同じです。
ただ、『守貞謾稿』がわさびを入れると書いているのは、マグロの刺身とコハダだけ。エビや白魚、穴子も握っていたのに、そちらには入れていません。すし研究者の日比野光敏の見立てでは、マグロとコハダは火が通っていなかったから。生の魚で腹をこわさないように、わさびの防腐の力を、経験から知って使っていた。それなら握りのわさびも、薬草だったころと同じく、薬だったことになります。

粉わさびとチューブ

わさびがもっと手軽になるのは大正時代。静岡の茶の仲買人、小長谷与七が、お茶をつくる技術をヒントに、1914年に粉わさびの製造に取りかかりました。大正9年(1920年)ごろには大量につくれるようになります。
昭和13年(1938年)には、西洋わさび(ホースラディッシュ)を原料にした粉わさびが登場。1969年には公正取引委員会が、粉わさびは西洋わさびを原料とした商品だと規約で定めています。
小袋入りの練りわさびが売り出されたのは1971年、チューブ入りは1972年。どちらも、まだ半世紀あまりの歴史です。

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